鎌倉時代の建久3年(1192年)征夷大将軍に任ぜられ鎌倉に幕府を開いて、670年間にわたる武家政治の創始者となった源頼朝が、翌建久4年(1193年)に那須野へ狩に出かけた帰り、新田の庄の新田義重の館に立ち寄りました。そのときに原野で騎射を催し、武将の綾藺笠の紐が切れて風に舞っているのを見て、面白く思い誰かあれを射よと言われたのが始まりといわれる笠懸ですが、これが笠懸町の謂れともなっています。また、一説には頼朝が新田の庄で射手を整えて流鏑馬の的を射させようとしたときに、流鏑馬は儀式が厳格なことから、略儀として笠を的として、馬を走らせてこれを射させ、武将に弓馬の道の習練をさせようとしたともいわれています。

笠懸・・綾藺笠を掛けてその裏を射たことから始まり、一尺八寸の丸い板にその上に幾重にも髪を張り合わせさらにその上になめしの皮をあてて作ります。

小笠懸・・臥せ鳥を狙うということから、埒のすぐ際に一片五寸の板的を置き、これを的とします。

例年、群馬県笠懸町のひまわり畑で行われます。