私達は、ある程度共通した思想や感情を持って社会生活を営んでいます。
共同生活の基本である作法が確立されたのは室町時代で、宮中のしきたりや、民間伝承、神社仏閣の規範を基に形づくられました。
『形』は生きており、心が通っていることが大切です。
『型』は心のない鋳型であり『形』ではありません。
鋳型のように『型』にあてはまるということは、あくまでも手段に過ぎません。

『形』に求められることは、第一に実用的で無駄を省き能率的であること、
第二は合理的ですべてに科学的な裏づけがあること、
第三に民族的に納得でき、『美』として映ることです。
外形をただ単に模倣するのではなく、それが生じた心を理解してはじめて『形』となるのです。

『物を大切に扱うには、物の機能を損なわないように』という教えがあります。
例えば、襖や障子を左から右へ開く。この時、左手で体の中央まで開き、次に右手に変えて右方向に押せば、筋肉に無理なく開けることが出来ます。
これを片手で開けようとすると襖や障子が中央を過ぎる頃、上腕部の筋力が急速に働き、襖や障子を荒々しく開けることになり、また、両手で開けようとすると上腕部の筋肉を無理に使っているため、襖や障子を斜めに曲げて開けることになってしまいます。これを長年続けていくと筋肉に無理をかけてしまうと共に、家屋も次第に歪んでいくのです。
もう1つ例を挙げましょう。
よく敷居を踏んではいけないといわれますが、敷居は柱と共に日本建築を正しく支えている要です。
歩く度に敷居を踏めば、敷居は緩み天井も下がってしまいます。
これと同様に、畳の縁を踏むなといわれますが、これは行き過ぎです。
畳の縁は損傷すれば修理すればいいわけです。

住居は『規矩準縄』という4つの道具によって正確に建てられます。
物理的な測定とは異なりますが、『言語動作』は経験者と未経験者、教える立場と教わる立場等、一般に通用する基準が必要です。時・所・人に合わせた融通のきく行動や教養を、身につけることが大切です。

他人を大切にするというこは、自分を大切にすることから生まれてきます。
これは利己主義・自分本位ということではなく、自分の人格を大切にすることです。
伊達政宗は「この世に客にきたと思え」と教えました。
指導者としての地位を得た時の武士の態度を教えたものですが、今日でも自分の作法にかなわない行為の恥ずかしさくらいはわかっていて欲しいものです。

作法の心とは、『人に対する恭敬・敬愛の心』を持つことです。
喜び・怒り・悲しみといった情緒は行動にあらわれます。
相手を考え、場所を考えて気持ちを抑えることも必要で、相手の立場を考えての行動は大切な作法と言えます。
作法とは時・所・人に併せて当たり前のことが自然にできることで, 『極めれば無色無形なり』ということを
教えているのです。